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ひろちゃん4649

Author:ひろちゃん4649
ひろちゃんのブログへようこそ! 
この主、会社を定年退職して5年。なけなしの年金を頼りに果樹栽培とこれに発するところの遊びを楽しんでいる、青春真っ只中のおのこじゃ。近所の遊び仲間と遊び歩いているから、遊び方を知りたい人は時々ご来訪を! 
オット 忘れていた。果樹栽培はワシのビジネスだから、そのうち収穫できるようになったら是非とも試食してみてくれ。

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平清経(たいらのきよつね)
 「清経」という男は平清盛の長男「重盛」の三男である。重盛には流石の清盛も一目置いていて、平家一門の重鎮であったが、乱世を前にして死んでしまう。いや、死んでしまったから乱世になったのかも知らん。「貸間ありと唐風に書く三代目」だったかな? 三代目というのは余り出来がよいという話しは聞かないが、清盛の大勢いる孫もあまり評判は芳しくない。


 「清経」という謡曲を習ったときに、何となく女々しい(ジェンダー云々は言わないで、ね)オトコだと思った。謡曲では清経の身内にある淡津三郎(あわつのさぶろう)が清経の形見の鬢の髪を持って、都でひっそりと住む清経の妻に届けに来る。妻は戦死したのかと思ったが、清経が入水したと知って怒り鬢の髪を受け取らない。妻の夢の中に清経が現れ、形見を受け取らなかったといってなじると、妻は自殺なんぞをしてと言い返す。マア 犬も食わない夫婦喧嘩というとこかナ。そこで清経は柳ヶ浦で入水自殺したときの状況を話して聞かせ、また死後の修羅の模様を見せるが最後は南無阿弥陀仏の十念で救われたと語るのだ。


 平家物語を読むまで(恥ずかしながら)知らなかったのは、平家が滅亡したのは柳ヶ浦で清経が入水したすぐ後ではなかった、ということだ。つまり都落ちして九州は大宰府に留まっている間に宇佐八幡宮に行幸したが、宗盛の夢に、御宝殿の御戸が開いて

    世のなかのうさには神もなきものをなにいのるらん心づくしに

という由々しく気高げにうたう声を聞いて彼は驚く。その上、豊後の国の領主は緒方三郎維義(これよし)に平家を追っ払えと命令したので、とうとう平家は大宰府を落ちて箱崎、垂見峠、芦屋などさまよい、更に小船に乗って豊前国柳ヶ浦へ渡るのだ。ここで清経は行く末を悲観して、船の屋形に立ち出でて横笛と朗詠したあと「閑かに経読み念仏して、海にしづみ給う」。


 ところがこの後、平家の一群は知盛の領国長門国より大船百余艘を調達して四国に渡り、讃岐の八嶋に船を並べ御所とするのだ。ここで体制を建て直し山陽道八ヵ国、南海道6ヶ国を従え、木曾義仲軍と水嶋合戦を闘い会稽の恥を雪ぐのだった。更に平家は摂津国に進出し福原の旧都に陣を構え、ご存知一の谷を背に、生田の森を大手の木戸口にする。つまり清経が入水した後、平家は勢いを取り戻し一戦を挑んだのだ。


 清経はそんな最後を見通したといえば格好は好いが、実はぼんぼん育ちで考え方がひ弱だったからちょっと先走っただけなんだな。まあ、おっちょこちょいだったということだ。体制を立て直してから一の谷に城郭を構えたあたりまで、平家の一門の連中は滅亡するなんて考えてもいなかっただろう。義経がひよどりごえで一の谷から奇襲をかけて成功しなかったら、平家が勝っていた可能性は十分あった!


 こうしてみると今度は一の谷に行ってみたくなるではないか。謡曲の史跡を尋ねて、なんぞという読み物があるが、謡曲に深入りしてくると関心を持つ範囲がだんだんと広がってくる。おもしろいですねえ。






    
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謡曲・仕舞 | 22:37:25 | Trackback(0) | Comments(0)
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